天の忍穂井考
|“天の忍穂井”について/概略|
神々の天孫降臨の時、地上の水は未だ純粋なものでなく、天牟羅雲命(あめむらくものみこと)が高天原へ上って伝えたところ、 天照大御神は天忍石之長井之水(あめのおしはのながヰのみず)を八盛に盛って入れ。「この水をもって降り、 八盛を皇大神の御饌とし、八盛を皇孫の御水とし、残りを“天忍水(あめのおしみつ)”と術して水の上に注ぎ入れ、混和して朝夕の御膳の料とせよ。また御伴に従って降りた神々にも献れ」と云いました。天牟羅雲命はこれを以って降り皇孫に奉告しました。
この時、皇孫は天牟羅雲命にどの道を上って行ったのかお聞きになり、 天牟羅雲命は、大橋は皇孫の道なので、私は小橋を上りましたと答えました。皇孫は天牟羅雲命に天二上命(あめのふたのほりのみこと)、後小橋命(しりへをはしのみこと)と二つの別名を授けました。天牟羅雲命は、末代までの名誉をたまわり、永く日本の井戸の神様となりました。子孫には伊勢の神宮の大神主を務めた度会氏がいます。
また、天牟羅雲命が天から持ってきた清水は、宮崎・高千穂から丹後国比治の真奈井を経て、伊勢・外宮の上御井神社(かみのみいのじんじゃ)と下御井神社(しものみいのじんじゃ)に伝わります。今でも、年の初めの若水をはじめ、毎朝神職が水面に姿が映らないように長い柄杓で一桶ずつ奉汲し、神饌御料に供されています。
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|豊受大神宮の由緒と沿革/『神宮公式ホームページ』より|
豊受大神宮のご鎮座は『止由気宮儀式帳』や『豊受皇太神御鎮座本紀』によると、雄略天皇の御代に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げをされたことによります。その内容は、「一所にのみ坐せば甚苦し」ということと、「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神、等由気大神を、我許もが」と教え諭されたことでした。天皇は夢から目覚められて、等由気大神を丹波国からお呼びになり、度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始められました。これが「御饌殿の創設」、「日別朝夕大御饌祭の創祀」を始めとする御鎮座の由来です。
天照大御神の御神慮によって豊受大神宮がお鎮まりになったことには、どんな意味があったのでしょうか。皇大御神は、豊受大御神の御神慮を仰ぐことなしに、食事に代表される生活全般の正しい豊かな営みが不可能であることを、みずからお教えくださったものと考えます。この御代は大陸との交通がますます盛んとなり、産業の開発も著しく、国富はいよいよ充実した時代であったことを考えると、その深い神慮のほどがうかがわれます。
豊受大神宮は皇大神宮と共に、かつて「二所大神宮」と称され、広大なる御神徳と尊い御鎮座の由緒にもとづいて、殿舎、祭儀のほとんどが皇大神宮と同様であり、皇室の御崇敬もまた同様に捧げられています。しかし、両宮は決して同格ではなく、皇大神宮こそが最高至貴のお宮で神宮の中心です。
神宮の祭典は、「外宮先祭」といって、まず外宮で祭儀が行われるならわしがあります。豊受大御神は天照大御神の御饌都神ですので、内宮の祭儀に先だって御饌都神にお食事を奉るのです。祭典の順序にならい、参拝も外宮から内宮の順にお参りするのがならわしです。
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|「豐受皇太神御鎮座本紀」/『国史大系 神道五部書』より|
天地初發之時。大海中有一物浮。形如葦牙。其中神人化生。名號:天御中主神。故號:豐葦原中國。亦因以曰:豐受皇太神也。與天照大日孁尊。舉此以八坂瓊之曲玉。八咫鏡。及草薙劍三種之神財。而授賜皇孫。為天璽。「視此寶鏡。當猶視吾。可與同床共殿、以為齋鏡。寶祚之隆。當與天壤無窮」宣焉。
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御井水。天孫降臨以來。天村雲命理治テ虎珀之鉢。[金剛夜叉神所化也。徑一尺八寸。]天降居留也。[為守護七星十二神羅列座。光明如明星坐也。]皇太神皇孫之命天降坐時ニ。天村雲命御前立テ。天降仕奉。于時皇孫之命天村雲命ヲ召詔ク。「食國之水ハ未熟。荒水ニ在ケリ。故御祖天御中主神之御許ニ奉上。此由言テ來」ト詔。即天村雲命恭登テ。天孫之御祖之天照太神。天御中主神之御前ニ。皇御孫之申上宣事ヲ。子細申上時ニ。御祖天照皇太神。天御中主皇太神。正哉吾勝尊。神魯岐。神魯美尊神議詔ク「雜ニ奉ム政者。行奉下テ在ドモ。水取政於ハ遺テ。天下復飢餓ク在ケリ。何神ヲカ奉下ムト思間ニ。勇ヲシテ恭登來」ト詔テ。天忍石ノ長井ノ水ヲ取。八盛テ誨給ク「此水持下テ。皇太神ノ御饌ニ八盛獻テ。遺水ハ。天忍石水ト術云テ。食國ノ水於ニ灌和テ。朝夕御饌ニ奉獻レ。」即時日向高千穗宮ノ御井定崇居焉奉仕ム。自爾以降。但波眞井石井ニ鎮移居。水戶神奉仕キ。
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其後、從真井ノ原遷テ止由氣宮ノ御井居止焉。二所皇太神ノ朝大御氣夕大御氣ト。八盛移居。每日二時供進ム。凡此御井水ハ、專不干。恒出。異怪之事、不過於是社。亦他用、更不可用之。亦道主裔大物忌父御井掃淨奉。亦御井與御炊殿、往還之間、道一百二十丈。橋十五丈。[黑木丸橋。]此月每修理掃淨。雜人等不通シテ。慎敬仕奉。亦天照太神座南御門前ノ御河中島ニ。造奉石疊テ。以黑木渡奉御橋テ。止由氣太神ノ大御饌。伴神御氣供進奉。三節祭。別禁封其橋。人渡不往還。則齋敬供奉ル也。・・・This story is to be continued.
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|「逸大同本記」(御巫淸直謹稿)/『神宮神事考證』より| 原文
御間城入彦五十瓊殖天皇于時。天照大神乞給國伊豆久曾(止)。大神教命隨求坐奉(止)詔。[故]皇子豊次[入]比賣命戴奉而倭内國始而、覔給/云々。從此幸行而。木乃國奈久佐濱宮三年斎奉。其時紀國造地口御田進。
天照大神乞給國伊豆久曾(止)。大神教命隨求坐奉(止)詔/云々。從此行伊勢國幸/云々。大神御贄進令而。采女忍比賣(我)作之天八十枚加持而。伊波比戸(爾)仕奉(支)。
神嘗祭十七日以直會/云々。齋宮之采女二人。御綱柏(爾)酒盛(弖)毎人給。
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皇大神皇[御]孫之命。天降坐時(爾)[度相神主等先祖]天牟羅雲命御前立(天)、天降仕奉時(爾)。 皇御孫命。天牟羅雲命(乎)召(天)。詔(久)。食國(乃)水(波)熟末荒水(爾)在(介利)。故御祖命許(爾)參上。此由申(天)來(止)詔。卽、天牟羅雲命參上(天)。御祖(命)御前(爾)皇御孫命(乃)申上給事(乎)子細申時(爾)御祖命詔(久)。雜(爾)仕奉(良牟)政(波)行下(天)在(止母)。水取政(波)遺(天)或(介利)。何神(乎加)下祭(良牟止)思問(爾)勇(久)參上來(止)詔(天)。
天忍石(乃)長井(乃)水(乎)八盛取(天)誨給(久)。此水持下(天)。皇大神(乃)御饌(爾)八盛。又皇御孫命(乃)御水(仁)八盛獻(天)。遺水(波)天忍水(止)[術]云(天)。食國(乃)水(乃)於(爾)濯和(天)。朝夕御饌(爾)[奉]獻(禮)又御伴(爾)天降仕奉神等八十友(乃)諸人(仁毛)。斯水(乎)飲令(止)詔(天)。下奉[給](支)。卽受賜(天)持參下(天)獻時(仁)。皇御孫命詔(久)。[從]何道(與利曾)參上(志止)問給(支)。申(久)大橋(波)須/皇?賣大神幷皇御孫命(乃)天降坐(乎)恐(美天)。後(乃)小橋(與利奈母)參上(支止)申時(爾)。皇御孫命詔(久)。後(爾毛)恐仕奉事勇(止)詔(天)。天牟羅雲命。天二登命。後小橋命(止)云三名負給(支)
卽時日向高千穗宮(乃)御井定崇居(弖)仕奉(支)。自爾以降但波[眞|魚]井石井(爾)[鎭]移居(天)仕奉(支)。其後豊受大神宮(乃)坤方(乃)岡方岸(爾)新御井掘(弖)。天忍石井水(乎)入加(弖)[當朝之水(爾)和合(弖)末之世(乃)]御饌調備料(爾)移置給水也。其水大旱魃年(母)涸不。其下二丈許下(天)水田有。其田(波)旱魃[損](爪禮止毛)。此御井(乃)水(波)專干不恒出。異恠之事是於過不。又他用更是用不。[其御饌殿(乎)今伊屋殿號是也。]
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志貴瑞籬宮御宇[崇神]天皇以往御世(波)。天皇(乃)相殿(爾)坐(天)聞食(支)。然後内(乃)大庭(爾)穗椋(乎)造(天)・出奉。[以]皇子[以]豊鋤比賣命(乎)供奉令。・・・This story is to be continued.
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|「逸大同本記」(御巫淸直謹稿)/『神宮神事考證』より| 読下
御間城入彦五十瓊殖<崇神>天皇の時に、天照大神の乞(コハシ)給ふ國は、伊豆久曾(イツクソ)と。大神の教命(ミヲシヘ)の隨に、求(マキ)て坐(マセ)奉れと詔ひき。かれ皇子豊次入比賣命戴(イタダキ)奉りて、倭の内の國始てより、覔(マキ)給ひき云々。ここより幸行(イデマシ)て。木乃國奈久佐濱宮に三年斎(イハヒ)奉りき。その時、紀國造、地口御田(トコロノクチノミタ)を進(タテマツ)りき。
天照大神の乞(コヒ)給ふ國は、伊豆久曾(イツクソ)と。大神の教命(ミオシヘ)の隨に求(マキ)て坐(マセ)奉ると詔き云々。ここより伊勢國に幸行(イデマシ)て云々。大神の御贄(ミニヘ)進(タテマツ)らしめて。采女(ウネメ)忍比賣が作れる天の八十枚加(ヤソヒラカ)持ちて。伊波比戸(イハヒヘ)に仕(ツカヘ)奉りき。
神嘗祭は、十七日に直會(ナホラヒ)す云々。齋宮(イツキノミヤ)之采女二人。御綱柏(ミツナカシハ)に酒盛りて、毎人に給る。
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皇大神皇御孫之命。天降り坐る時に、度相の神主等が先祖の天牟羅雲命の御前に立ちて、天降(アモ)り仕(ツカヘ)奉る時に。
皇御孫命。天牟羅雲命を召して詔はく。「食國(ヲスクニ)の水は熟(ウマ)からず、荒(アラキ)水にありけり。かれ御祖命の御許に參上りて、この由申して來よ」と詔き。
ここに天牟羅雲命參上て、御祖命の御前に、皇御孫命の申上げ給ふ事を子細に申す時に、御祖命詔はく。「雜(クサグサ)に仕奉らむ政(マツリゴト)は行下(オコナヒクダ)して在れども。水取(モヒトリ)の政(マツリゴト)は、遺して或けり。何神(イヅレノカミ)をか下祭(クダシマツ)らむ」と思問(オモフホド)に。「勇しく參上來(マヰノボリキ)」と詔ひて。
天忍石(アメノヲシハ)の長井(ナガヰ)の水を、八盛(ヤモリ)取りて誨(ヲシエ)給はく。「この水を持下りて、皇大神の御饌(ミケ)に八盛(ヤモリ)。又皇御孫命の御水(ミモヒ)に八盛(ヤモリ)獻(タテマツ)りて、遺れる水は天忍水(アメノオシミヅ)と術(マジノリ)云ひて、食國の水の於(ウヘ)に濯和(ソソギヤワ)して。朝(アシタ)夕(ユフベ)の御饌(ミケ)に奉獻(タテマツ)れ」。「また御伴(ミトモ)に天降り仕奉る神等、八十友(ヤソトモ)の諸人にも、この水を飲ましめよ」と詔ひて下(クダ)し奉(マツリ)給ひき。
かれ受賜りて持參下りて獻(タテマツ)る時に、皇御孫命詔はく。「いづれの道よりぞ參上りし」と問給ひき。申さく。「大橋(オホハシ)は須賣(スメ)大神ならびに、皇御孫命の天降坐せるを恐(カシコ)みて、後(シリヘ)の小橋(コハシ)よりなも參上りき」と申す時に、皇御孫命詔く。「後(シリヘ)にも恐(カシコ)み仕奉る事を勇し」と詔ひて。天牟羅雲<アメノムタクモノ>命。天二登<フタノボリ>命。後小橋<シリヘオハシ>命と云う三名(ミツノナ)を負(おふせ)給ひき。
その時、日向高千穗宮の御井を、定崇居(サダメイハヒスエ)て仕(ツカヘ)奉りき。それより以降(コノカタ)、但波(タニハ)の眞魚井(マナヰ)の石井(イハヰ)に、鎭移居(ウツシスエ)て仕(ツカヘ)奉りき。
その後、豊受大神宮(トユケオホミカミノミヤ)の坤方(ニシミナミノカタ)の岡方岸(ヲカノカタキシ)に、新たに御井(ミヰ)を掘りて、天忍石井水(アメノオシハヒノミズ)を入加(イレカテ)て、當朝之水(ミクニノミヅ)に和合(ヤハ)して、末之世(ナガキヨ)の御膳(ゴゼン)調備料(ツカヘマツラムタメ)に、移し置(オキ)給へる水なり。その水いたく旱魃(ヒデリ)する年も、涸れず。その下、二丈(フタタケ)許り下りて、水田(タ)あり。その田は、旱魃(ミツヒ)損ずれども、この御井の水は專ら干ず、つねに出づ。
異恠之事(アヤシキコト)是於過不(コレニスギズ)。又(マタ)他用更(アタシコトニサラニ)是用不(コレヲモチヒズ)。[その御饌殿を、いま伊屋殿<イヤドノ>といふ。]
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志貴瑞籬宮に御宇し崇神天皇より往(サキ)の御世は、天皇の相殿に坐て聞食(キコシメシ)き。さて後、宮内の大庭に穗椋(ホクラ)を造て・出(イタシ)奉り。皇子(ヒメミコ)豊鋤比賣命を供(ツカヘ)奉らしめ ・・・This story is to be continued.
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|「二宮管社沿革考」(御巫淸直謹稿)/『神宮神事考證』より|
○上御井社<カミノミヰノヤシロ>。倭姫世紀ニ云ク、御井ノ社。
此社ハ『長徳撿錄』ニ云ク、上ノ御井ノ社[卽御井在]ト云ヘリ。振古廢絶ナク、今猶本宮ノ域内坤方藤岡山ノ懐ニ在リテ忍穗井<オシホヰ>ト稱ス。土俗ハ“オモヒ”ト呼ベリ。『延暦儀式帳』ニ、朝ノ御饌夕ノ御饌仕ヘ奉ル御井ノ神ノ祭仕ヘ奉ル[年中六度]、トアル是ナリ。
『毎事間』ニ云ク、「問フ:神ノ御井ノ社ノ制作ハ他ノ攝末社ニ異ナルハ何ソヤ? 答フ:此社古ヘハ知ラズ、今ノ如クニ成タルハ慶安二年ニ奉行石川氏ノ修造ナリ、寛文三年ニ奉行八木氏瑞垣ヲ修補アリ、延寶四年上部貞芳ヵ自力ヲ以テ造替シタル事モアリ」ト載タリ。然シテ今ノ制作ヨク古ニ符合セリ。
『神宮雜例集』ニ云ク、「大治三年十二月廿四日、御井ノ井ノ社ノ中ニ蛇ノ奈保禮留ヲ見付ル事、當日三人ノ物忌ノ子良、夕ノ御饌ノ御水ヲ共進ノ爲ニ、二宮朝夕ノ御井社ニ参ル、御戸ヲ開キ奉リ拝見之處、長四尺許蛇八寸計者土居之外從指出テ、三尺計者御井ノ社ノ内ニ奈保禮留之見付ル由所也」ト載タル殿ノ制造、今ト異ナラザルヲ併考スベシ。
抑<ソモソモ>此御井ニ奉齋スル二宮朝夕ノ御饌ノ御水ハ、皇御孫ノ命降臨ノ時、天ノ矣羅雲ノ命天ノ忍石ノ長井ノ水ヲ持下リテ日向ノ國高千穂ノ宮ノ御井ニ崇メ奉リ、其後丹後ノ國比治ノ眞魚井ニ移奉リ、本宮鎭座ノ日是ノ御井ニ移居ヱテ二宮ノ御饌ノ外他用ニ充テ不ル御水ニテ、旱魃<ヒデリ>ニモ涸ルコトナシ。
其來由ハ『大同本記』、『御鎭座本紀』等ニ委クセリ。長文ナル故今其槪略ヲ注ス。『風雅集』、度會延誠神主ノ歌ニ「世々經テ汲ムトモ蓋シ久方ノ天ヨリ移ス忍穗井ノ水」、ト詠セルハ其故實ヲ得タル歌ナリ。
然ルニ寛平八年干失アリシカハ上奏セシニ、勅使ヲ差テ祈謝セラレ、又仁安元年九月干失ニヨリテ神事違例ヲ注進セシメラレシコト『神宮雜例集』に見エ、永承二年ノ春干失アロシ事モ『大神宮諸雜事記』ニ載リタリ。
如此變異有ル時ハ嚴重ニ祈謝セラルル例ニシテ、尊崇餘社ニ異ナル社ニコソ。
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|「倭姫命世紀」/『續郡書類從第一輯』より|
豐受皇太神宮。[元丹波國與謝郡比沼山頂。麻奈井原坐。御饌都神。又名倉稻魂是也。大自在天子。御靈形眞經津鏡坐。圓鏡也。神代三面之内也。天御中主靈。御間城入彦五十殖瓊帝卽位 卅九年七月七日天降坐。]
相殿神三座。[大一座。天津彦々火瓊々杵尊。形鏡坐。前二座。天兒屋根命。太玉命。形笏坐。寶玉坐。大左方座。前二座。右方座。]
多賀宮一座。[豐受荒魂也。伊弉諾尊所生神。名伊吹戸主。又名曰神直日大直毗神是也。靈形鏡座。]
土御祖神二座。[宇迦之御魂神。寶東向(瓶坐イ)。土御祖乃神。形鏡坐。寶瓶坐。]
月讀神。[承元四年爲宮。靈形鏡坐。]
調御倉神。[宇賀能美多麻三狐神。形尊形。保食神是也。]
酒殿神。[豐宇賀能賣命。缶坐。丹波竹野郡奈具社坐神是也。天女善爲醸酒。飲一坏。吉萬病除之。形石座也。]
風神。[八風神。]
北御門社。[一名若雷神。加茂社同神也。形𤭖座。]
御井社。[天忍石長井水是也。北向坐。七星羅列。]
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