豐受神靈由來或問 『神宮神事考証<前篇>』所収
御巫淸直謹稿
◎或問云 外宮に奉祀する豐受皇太神の神靈は何ぞ?
◎答 云 『太神宮本記』云、「豐受太神一座、元ハ丹波ノ國比次ノ麻奈井原ニ坐シ、御食都神、亦ハ倉稻魂ト名ハ是也、御靈形圓鏡也」とある、是正しき古云なり。『延喜大神宮式』云、「度會宮ノ樋代一具[正宮料、徑高各一尺五寸]」と載するを見て其分量を推察し奉るべし。
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◎又 問 然らば丹波國より奉遷せしは何時ぞ?
◎答 云 『外宮延暦儀式帳』云、「天照坐皇太神、巻向玉城宮ニ御宇シ、天皇ノ御世ヨリ始メテ、國々處々ニ大宮處求賜フ時ニ、度會(乃)宇治(乃)伊須々(乃)河上(乃)大宮供奉リキ、爾時(爾)大長谷(乃)天皇(乃)御夢(爾)誨ヘ覺シ賜(久)、吾レ高天原(爾)坐(弖)、見(志)眞岐賜(志)處(爾)、志都眞利坐(奴)、然ル(爾)吾一所耳坐(波)甚苦(シク)、加以ラス大御饌(毛)安ク聞食サ不坐カ故(爾)、丹波ノ國比治(乃)眞奈井(爾)坐ス、吾カ御饌都神、等由氣太神(乎)、我許欲(止)誨覺シ奉(支)、爾時天皇驚キ悟リ賜(弖)、卽丹波ノ國從リ行幸令メ(弖)、度會(乃)山田原(乃)下ツ石根(爾)宮柱太知立、高天原(爾)知疑高知(弖)、宮定メ齋キ仕奉リ始(幾)」と云ひ。
又『大同神事供奉本記』云、「雄略天皇ノ御夢(爾)、皇太神(乃)教覺給(久)、高天原ニ坐テ、我カ見志末伎之宮處(爾)鎭理坐(天)、御年間ヲ經ヌレト吾一所耳坐(禮波)、御饌安ク聞食不、今丹波ノ國比治(乃)眞井ニ坐シテ、道主王ノ子八乎止女(乃)齋奉ル御饌都神、止由居(乃)神(乎)、吾カ坐ス國欲ト誨覺給(支)、爾時天皇驚給ヒテ、度會神主等ノ先祖大佐々命ヲ召(天)、使ニ差シテ布理奉(止)宣(支)、仍退往テ布理奉(支)、是レ豐受太神也」とあるを見るべし。雄略天皇の御世なり。
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◎又 問 此事史に所見なし。如何?
◎答 云 『雄略天皇紀』此事を載せず。而して二十二年秋七月丹波ノ國餘社<ヨサノ>郡管川<ツツカワ>ノ水江ノ浦嶋子のことあり。『御鎭坐本紀』に、丹波より遷移のことを二十二年七月七日に係るを以て、『日本紀通證』にも疑て云、今按るに此『紀』、「外宮ノ事ヲ書不、一大缺事爲リ、而テ是ノ年月同ク丹波ノ餘社モ亦同シ、甚疑可爲爾」と云へり。然れども史に国家の大事脱漏するもの枚擧するに遑あらず。延暦大同の明文ある上は、史に脱せりとも何ぞ疑はむ。
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◎又 問 神靈を丹波國に奉祀せる初は、『御鎭座本紀』に「御間城入彦五十瓊殖ノ天皇卅九歳壬戌、天照太神、但波(乃)吉佐宮ニ幸遷、今歳止由氣之皇太神、幽契ヲ結ビ、天降居」云々。「天照太神伊勢國(爾)向幸シ給フ、止由氣太神復高天原ニ昇リ天日之小宮ニ座ス、干時吾カ天津水影(乃)寶鏡以、吉佐宮ニ留居キ給フ」と云い、神宮の秘記並此に同じ。此時始テ天上より降臨ありしにや?
◎答 云 丹波國に奉祀せし始は、彼書等に載る如く崇神天皇の御世なり。然れども神靈降臨のことは、『古事記/皇御孫命天降段』に「登由氣ノ神、此者外宮之度相ニ坐ス神者也」とあれば、大祖神の皇孫に副賜せる神物にて、降臨神代にあること炳焉なり。然れども『記』、皇孫に授賜の由縁を脱す。故に神靈何たること知られず。
『大倭本紀』云、一書曰「天皇之始メテ天降リ來マス之時ニ、共ニ護齋<イハイ>ノ鏡鏡三面、小鈴<コスズ>一合ヲ副也、注曰、一鏡ハ者、天照大神之御靈、天懸ノ神ト名ク也、一鏡ハ者、天照大神之前御靈<サキミタマ>、國懸<クニカカス>ノ大神ト名ク、今紀伊ノ國名草ノ宮ニ崇敬<イツキ>解祭<マツ>ル大神也、一鏡及小鈴者、天皇ノ御食津神、朝夕ノ御食、夜護リ日護リト齋奉ル大神ト、今巻向ノ穴師社宮ニ所座<マセ>テ解祭<マツ>ル大神也」と見えたるを併考るに、此御食津神と護齋する一鏡は、卽登由氣大神ノ神靈なること明なり。然るに『古事記傳』に此注を釋して「一鏡小鈴共ニ巻向穴師社ニ奉祭ス」と云うが如きは謬なり。
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◎又 問 然らば崇神天皇の御代に天降るとあるは謬傳にや?
◎答 云 謬傳にはあらず。上古天降と云詞に三義あり。一には神人の天上より降臨するを云フは論ナシ。一には天皇の田舎へ行幸し給ふを云フ。『萬葉集』に「八隅知之、吾大王乃所聞見爲、背友乃國乃眞木立不破山越而、狛劔和射見我原乃行宮爾、安母座而、天下治賜食國乎定賜等」云々、とある、安母理卽天降にて、天武天皇の京より美濃國和蹔<ワザミ>の行宮に行幸せるを云へるなり。一には神靈の他所より幸行して鎭座し給ふを云ふ。
『本朝月令』引用の『秦氏本系帳』に「松尾ノ大神ノ御社者、筑紫胸形ニ坐ス中部大神なり、戌辰年三月三日、松崎ノ日尾ニ天降リ坐ス」云々、又『年中行事秘抄』引用の『中臣記文』にも、神護景雲年中三笠山ニ天降り給之後、御寶殿ヲ於同山下津石根ニ造立セ被ル」とあるを云るべし。然れば神宮の古記等に、神靈の京より丹波に遷移ありしを天降坐と記せるにて、此時天上より降臨すと云う義には非ず。然れども『御鎭座本紀』に「復高天原昇リ(天)、日小宮<ヒノワカミヤ>ニ座ス」などあるは、附會の言にして論ずるに足らず。かの三義を混して古傳を忽緒すべからず。
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◎又 問 皇孫に副賜せるより崇神天皇に至るまで十二代の天皇の代々は、何處に奉祀ありしにや?
◎答 云 日向國に御宇し、三代天皇の御代は明文なし。神武天皇の奉齋ありしことは、『古語拾遺』云、「爰ニ仰テ皇天二祖<アメノカミフタハシラノヲヤ>之詔ニ從ヒ、神籬ヲ建樹、所謂、高皇産靈、神皇産靈、魂留産靈、生産靈、足産靈、大宮賣神、事代主神、御膳神、[已上、今御巫齋奉所]」と見えたる御膳神は卽登由氣大神なれば、副賜の神靈を奉齋ありしこと見つべし。
抑{ソモソモ}此神籬は『神代紀』に、一書云「高皇産靈尊因テ勅{ミコトノリ}シテ曰ク、吾ハ則天津神籬及び天津磐境ヲ起樹テ、吾孫ノ爲ニ奉齋當矣、汝天兒屋命、太玉命、天津神籬ヲ持、於葦原ノ中國ニ降リ、亦吾孫ノ爲ニ齋奉焉宣シトノリタマヒテ、乃二神ヲ從テ天忍穗耳ノ尊ニ陪テ之以降使ム」とある勅の如く、代々の天皇崇敬して、天兒屋命、太玉命二神の苗裔中臣齋部二氏の人をして、八神を奉齋せしめ給へり。
『太玉命社記』云、「高皇産靈尊神籬磐境ヲ誓樹テ、其間ニ降リ于、長ク君王ニ近国家ヲ護鎭、君王惟恭天ノ永命祈、卽是レ神祇官西院之根源也」と云へる如く、後に神祇官西院に坐ス御巫祭神八座[竝大、月次、新嘗]、神産日神、玉積産神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神。又臨時祭式に、神殿各一宇[長一丈七尺、廣一丈二尺五寸、云々]、右御巫遷替スル毎ニ、神殿以下改メ換ヘヨ」と載せられたり。然て高皇産靈神より以下七柱の神靈も、御膳都大神と同じく皇孫に副賜の神物なるを、天津神籬に奉齋し來り、崇神天皇の御世に朝廷を奉出して、諸国に鎭め奉れるなるべし。御食津大神のことは神宮の古記に粗傳ふるをみれば、自餘の七神も推て知べきか。
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◎又 問 神宮の秘記に、御食津神を崇神天皇の御世丹波國に奉遷す、とあるに依て、七柱の神靈共に諸國に遷移するならんと云へど、彼は偽作の書なれば據と成難からむか?
◎答 云 御膳都大神幷七柱の神靈奉遷のことは、五部の秘記のみを准據とするに非ず。惣て皇孫に副賜の神物奉出せしは彼御世なり。因て八神靈も此時ならんと云なり。副賜の神靈多かれども、始末全く記録せるものなし。三種の神璽をだに史の本文に脱漏す。況や諸神の靈形をや。故に諸書を参考せずば有べからず。
『先神代紀』云、「大己貴神、國平{クニムケ}シ時杖<ツ>ケリシ所廣矛{ヒロホコ}乃以テ二神ニ授テ曰ク、吾レ此矛ヲ以テ卒{ツヒ}ニ功治有リ、天孫若此矛ヲ用テ國者治メタマハバ、必平安ナル當シ」とある矛を副賜のことは、『古語拾遺』云、「卽八咫ノ鏡及草薙ノ劔二種ノ神寶ヲ以て皇孫ニ授賜ヒテ、永ク天璽爲ス、矛玉自ラ從ヘリ」と見ゆ。此矛崇神天皇の御世に倭大國魂と共に遷して相殿に奉祠す。
仁安二年『大倭社注進状』云、「相殿ノ神八千戈{ヤチホコ}ノ神、傳ヘ聞ク、八千戈ノ神者、大己貴命廣矛ヲ以テ杖ト爲テ、豐葦原中國之邪鬼ヲ撥令ム、是ノとき大己貴命ヲ號シテ八千戈神ト白ス」云々、「此矛亦上古天皇ノ大殿之内ニ在リ、共藏齋シ八千戈神之神體ト爲ス」とあり。
又『大倭本紀』云、一書曰「天皇之始メテ天降リ來マス之時ニ、共ニ護齋{イハイノ}鏡三面、小鈴一合副フ也」とある注に曰く「一鏡ハ者、天照大神之前ノ御靈、國懸大神ト名ク、今紀伊國名草ノ宮ニ崇敬解祭{イツキマツル}」と見えたるは、『延喜式神名帳』に「大和國城上郡巻向ニ坐ス若御魂神社」と載せたるならむか。
又『古事記/皇孫天降段』に「次ニ手刀男ノ神者佐那縣ニ坐ス也」とあるは、『神名帳』に「伊勢ノ國多氣ノ郡佐那ノ神社」と見えたる是なり。右の二神奉遷のこと所見なけれども、並に天照太神經歴の地にあり。疑らくば崇神天皇の豐鉏比賣命に託せられしを奉祀するものなるべし。
又八神と同じく神祇官西院に坐て、御門巫ノ祭神、櫛石窻ノ神、豐石窻ノ神の神靈副賜のことは『古事記/皇孫天降段』に「次ニ天石戸別ノ神、亦ノ名ハ櫛石窻神ト謂フ、亦名ヲ豐石窻ノ神トモ謂フ、此ノ神者御門之神也」と云い、神武天皇神籬に奉齋ありしことは、『古語拾遺』に八神の下に載せたり。
『顯廣王記』云、「元久元年三月六日、權大副卜部兼衡來リ談テ云、本官ノ西院ノ北舍ニ坐ス、四面御門ノ神ハ、内ノ建禮建春門等ニ坐サ令ル之神也、本社ハ但馬ノ國ニ有リ」云々、とある本社は、副賜の神靈を遷移して奉祀する社を云なり。然して但馬と云は誤にて、『延喜式神名帳』に「丹波ノ國多紀ノ郡櫛石窻ノ神社二座」とある卽是なり。此神靈奉出のことも崇神天皇の御世なるべし。此如き傍例に准據し、且御膳都太神奉遷の傳に從て、七神も亦皇孫副賜の神靈にて、崇神天皇の御代朝廷を奉出せられしならむと云なり。
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◎又 問 然らば八神の本社諸国にありや?
◎答 云 『延喜式神名帳』に「大和ノ國十市ノ郡目原ニ坐ス高御魂ノ神社二座[並大、月次、新嘗]」とある是高御魂、神魂の二神を合祭せるならん。其餘添上ノ郡宇奈太理に坐す高御魂ノ神社、山城ノ國乙訓ノ郡羽束師に坐す高皇産日ノ神社あり。然れども目原坐社本社なるべし。
又丹後ノ國丹波ノ郡大宮賣ノ神社二座[明神大、月次、相嘗、新嘗]あり。又大和ノ國葛上ノ郡鴨都波八重事代主ノ神社二座[明神大、月次、相嘗、新嘗]と見ゆ。其餘高市ノ郡高知ノ御縣ニ坐ス鴨事代主ノ神社あれど、出雲國造神賀詞に鎭座の來由を載るを見れば、本社にあらず。然て生産日、足産日、玉積産日三神の本社分明ならず。
『天武天皇紀』に「牟狹ノ社ニ所居ル名ハ生雷神」とあるを、『釋紀』に「生靈神ニ作ル」。是生産日神ノ社にや。『神名帳』に「大和國高市ノ郡牟佐ニ坐ス神社」とある卽是なり。然れども神名なければ正しく生産の本社とも究めがたし。又按るに攝津ノ國東生ノ郡難波ニ坐ス生國魂ノ神社二座あり、恐くは是生魂神に非るか。俗に生玉社と稱するをも併考べし。
然して御食津神の始め奉遷ありしは、丹後ノ國丹波ノ郡比治ノ麻奈爲ノ神社是なり。雄略天皇の御世、神靈は外宮に遷移すと云へども、載て『神名帳』にあり。
又此八神の外神祇官にして、座摩巫ノ祭ル神、御門ノ巫ノ祭ル神、生嶋ノ巫ノ祭ル神等も、『神名帳』に、「攝津ノ國西成ノ郡座摩ノ神社[並大、月次、新嘗]、丹波ノ國多紀ノ郡櫛石窻神社ノ二座[並明神大]、信濃ノ國小縣ノ郡生嶋足嶋ノ神社二座[明神大]」とあるなど、並に神籬に奉齋ありし神靈を奉遷ありし神社なるべし。
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◎又 問 『神名帳』に所載、天神地祇惣テ三千一百三十二座、其内に彼八神を奉祀する神社多かるべし。然るに偶上件の神社、其神名を社號に稱するを見て本社ならむと云ふは信用しがたし?
◎答 云 疑ふ所尤よし。然れども朝廷にして御巫の祭神八座、並に大社の列にして、月次、新嘗の幣帛に預る。其本社たる神社、中社、小社の列なるべからず。上に載る社、並に大社にして畿内に奉祀するは月次、新嘗の奉幣あり。丹波、丹後、信濃等の國にあるは幣帛のことなし。京に懸隔せる故に自ら脱漏するものか。然して此神社等のある國々、崇神天皇の御世に奉祀せらるべき由縁有ればなり。
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◎又 問 彼御代に奉祀あるべき由縁は如何?
◎答 云 『崇神天皇紀』伝、「六年、是ヨリ先、天照大神、倭大國魂ノ二神ヲ、並ニ天皇大殿之内ニ於祭ル、然ルニ共住コト安カラ不其ノ神勢ヲ畏テ、故天照大神ヲ以テ、豐鋤入姫命ニ託テ、倭ノ笠縫ノ邑ニ於祭ル、仍磯城神籬ヲ立ツ、亦日本ノ大國魂ノ神ヲ、渟名城入姫命ニ託テ、同市磯邑ニ於祭リキ」と見えて、天照大神と倭大國魂神とをのみ奉出ありし如くなれど、草薙劔、及日前國懸大神、八千戈神、手力男神等の神靈をも、共に皇女に附託せられし明證は、旣に上件に辨しぬ。然れば二神の神勢をのみ畏給へるに非ず。惣て皇孫副賜の神物の靈威を畏れて、悉く奉遷せられしものなるべし。
『同記』云、「十年秋七月己酉、群卿ニ詔テ曰、之本ハ民ヲ導ク、教化ニ於在リ也。今旣ニ神祇ヲ禮シテ災害皆耗<ツ>キヌ、然ルニ遠荒人等猶正朔ヲ受不、是王化ニ習未ル耳、其群卿ヲ選テ、四方ニ遣シ于、朕意ヲ知令メヨ」、「九月丙戌朔甲午、大彥命ヲ以テ北陸ニ遣シ、武渟川別ヲ東海ニ遣シ、吉備津彥ヲ西道ニ遣シ、丹波道主命ヲ丹波ニ遣シ、因以詔テ之曰、若シ教者受不有ラバ、乃兵ヲ舉テ之ヲ伐テ、旣ニ而共印綬ヲ授テ將軍ト爲ス」とあるを按るに、我朝上古より印綬を賜ふことを聞かす。
是撰者の文にして『同紀』に、「蓋ソ神龜ニ命テ以災致之所由ヲ極也」、又『神武天皇紀』に「弟猾大ニ牛酒ヲ設ク」、又『景行天皇紀』に「天皇斧鉞ヲ持チ日本武尊ニ授ク」とある類なり。潤飾過テ事實を失せり。然るに此印綬の字古く志流志<シルシ>と訓ず。最モ從べし。『書記』に取入れられし古傳書には、志流志を授けし旨ありけるを、印綬の字を充られしならむ。其標として將軍等に授賜せられしは、卽天津神籬に奉齋せる皇孫副賜の神籬なるべし。
其證は先大彦を北陸道、武渟川別命を東海道に發遣ありと云ふを、『古事記』に「大毘古命者、高志道ニ遣シ、其子建沼河別命者、東方十二道ニ遣シテ、其麻津漏波奴{マツロハヌ}人等ヲ平ケ和令ム」云々、「故レ大毘古命者、先ノ命ノ隨ニ而、行高志國ニ罷行キ、爾ニ東方自リ遣<マケシ>所建沼河別ト、其父大毘古興、共ニ相津ニ往遇キ于」とあり。
建沼河別命の陸奥國曾津に到りし東方の道中、信濃国小縣郡藍田庄下之鄕邑に生嶋足嶋神社あり、『社傳』に云、「崇神天皇の御代鎭座なり」と云えり。又「吉備津彦ヲ西道ニ遣ス」とあるを、『古事記』には「大吉備津日子命ト、若建吉備津日子命興、二柱相副而針間ノ氷河之前ニ忌瓫{ボン}ヲ居ヘ而、針間ヲ道ノ口ト爲シ、以向和ク吉備國ヲ言也」とある。
大和ヨリ吉備國ニ到ル路中、攝津国西成郡大阪の市中に坐摩神社あり。又「丹波道主命ヲ丹波ニ遣ス」とある、其國多紀郡に、櫛石窻神社あり。丹後國丹波郡に大宮賣神社あり。此等並に神靈を將軍に授賜ありしを、由縁ありて其國々に奉祀せるものか。然テ御膳都神止由氣大神の始て奉鎭ありし比治麻奈葦神社も、亦丹後国丹波郡久次村にあり。是れ亦道主命に附託して彼處に奉齋ありにしや。
『大同本記』に「比治乃眞井ニ坐テ、道主王ノ八乎止女乃齋奉ル御饌都神」と見ゆ。雄略天皇の御世までも彼命の子孫奉祀せられしは由あるべし。『神宮ノ秘記』、奉祠の始を錄すと雖も、附會多くして事實分明ならず。然れども雄略天皇の御世に關係せるは據とすべし。其餘高御産日神、事代主神等の神社は大和國にあり。是將軍歸京の時に奉鎭せしなるべし。此如き由縁あるを以て、上件の神社を八神殿の本社なりと云なり。熟く考べし。
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◎又 問 神靈を悉皆諸國に奉祀せば、後の八神殿には何を以て靈形とするにや?
◎答 云 神靈を奉出して別に神體を模作せず。賢木を用て祭祀するなり。
『百錬抄』云、「大治二年二月十四日、園韓神ノ社、神祇官八神殿、幷内外ノ院垣云々等燒亡云々、但後日兼俊宿禰云、八神殿、園韓神、元自御正體無シ、但園韓神ハ神寶劔鉾有、ト云ヒ、又玉英ニ云ク、暦應三年三月廿九日、大藏卿雅仲卿敕使ト爲テ來ル、神祇官修造有可ル、[武家執奏之故也]、神體ニ於テ者、凡テ御座無キ之由、伯業淸王申ス所也、此事如何、又先例ニ任セ先假殿造營有ル可キ歟、將又直ニ正殿ヲ作被ル可キヤ如何、且ツ計ヒ申ス可ク、且尋ヌ卜部ノ輩ニ相尋ヌ可シト者ヘリ、予申シテ云、早ク相尋ヌ可ク候、神祇官ノ神體神木爲ル此條勿論歟、伯ノ申狀不審、又直ニ正殿ヲ作ル須キ也、其故者、神體御座之時ハ、先假殿ヲ作テ神體ヲ移奉ル之後、正殿ノ造營有リ、今度ニ於者神體已ニ紛失給ヘリ、假殿其詮無シ、片時ト雖モ正殿ヲ忩被可也者」と云ひ、又『諸神本懐』に云く、「八神殿唯賢木ヲ用御體ヲ安ンセ不也」とあるを見るべし。
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◎又 問 或『説』云、神祇官にて八神已下{イカ}ヲ祭給うは天武天皇の御世よりなるべし。『天武紀』云、「吾者高市社ニ所居、名ハ事代主神、又矣狹社ニ所居、名生靈神者也」云々、「吾者皇御孫命之前後ニ立デ、以于不破送奉リテ而還リヌ焉。今且タ官軍ノ中ニ立テ守護之」とあるは、いまだ二神を神祇官に祭らざるさまなり。此文に大御身を守護る由見えたれば、守護の爲に此御世より神祇官舍を建られ、隨て八神殿をも建て祭らるるなるべし。八神各本社あり。
又『持統天皇紀』云、「三年八月壬午、百官於神祇官ニ會集」とあり。是神祇官舍の始て紀に見えたるなり。元來官人はあれども官舍はなきにや。然るに『古語拾遺/神武段』に「爰ニ仰テ皇天二組之詔ニ從テ、神籬ヲ樹建<タ>ツ、所謂高皇産靈」云々、とあるは八神以下の神名は、後に神祇官に祭る神名を取ておしあてて書しならむ。
『神武紀』、「四年、詔テ曰ク、我ハ皇祖之靈也、天降テ自リ我躬ヲ鑒助ス云々、乃靈畤ヲ於鳥見ノ山中ニ立テ、用皇祖天照ヲ祭ル焉{イズクンゾ}」とありて、神名なきを正しとすべしとの説、古人未發の考にて的當せるが如し。此説に從は、止由氣大神を神祇官に奉祀ありしと云ふは信用しがたし?
◎答 云 天武天皇の御世に、事代主、生靈の二神託宣あるに依て、神祇官を建て、守護の爲に奉祀し、隨{シタガヒ}て八神以下をも祭始むと云説、更に信用すべからず。彼説に據とする文を熟覧すべし。
『天武天皇紀』云、「是ヨリ先。金綱{カナヅナ}ノ井ニ軍スル之時、高市郡大領高市縣主許梅<コメ>、儵忽<ニハカニ>口閉而言能不也、三日之後ニ、方神著<マサニカミガカリ>以言ク、吾者高市社ニ所居、名ハ事代主神、又牟狹社ニ所居、名ハ生靈神者也。乃顯テ之曰ク、神日本磐余彦天皇之陵ニ於テ、馬及種々兵器ヲ奉レ、便亦言ク、吾者皇御孫命之前後ニ立テ、以テ不破ニ送奉リ于而還リヌ焉、今且官軍ノ中ニ立テ守護之、且言、西ノ道自リ軍衆至ムト將之、鎭ム宜シ也、言訖テ則醒メヌ矣、故レ是ヲ以便許梅ヲ遣シテ而拝セシム御陵ヲ祭、因以馬及兵器ヲ奉ル、又幣ヲ捧テ而高市身狹ノ二社之神ヲ禮祭ス、然後壹伎ノ史韓國<イキノフビトカラクニ>大坂自リ來ル、故レ時ノ人曰ク、二社ノ神教所之辭適ニ是也、又村屋ノ神祝ニ著テ曰ク、今吾社ノ中道自リ軍衆至ムト將、故レ社中道塞グ宜シ、故幾日經未シテ、廬井ノ鯨軍中道至ル自、時ノ人曰ク、卽神教所之辭是也、軍政旣ニ訖リテ、將軍等是三神ノ教言ヲ擧ゲ而之奏ス、卽勅テ三神之品ヲ登進シテ以祠ス焉」とあるを見るべし。軍中にして高市、牟狹、村屋の三神託宣あるに依りて、靜謐の後三神の品を登進して奉祀ある趣なり。此時より三社を同列の大社として祭祀あるにや。
『延喜式神名帳』云、「大和ノ國高市ノ郡高市ノ御縣ニ坐ス鴨事代主ノ神社[大、月次、新嘗]、牟狹ニ坐ス神社[大、月次、新嘗]、城下郡村屋ニ坐ス彌富都比賣ノ神社[大、月次、相嘗、新嘗]」とあり。然るに彼説の如く此託宣に依て神祇官舍を建て二神を奉祀し、隨て自餘の六神をも祭祀すと云は、何ぞ同列に品を登進して祠る村屋神、彌富都比賣を脱漏あるや、又自餘の六神は何の由縁ありて奉齋し始めしや、『天武天皇紀』中其據を見ず。
又神祇官舍の『日本紀』に載たるは、『持統天皇紀』に始ると云えども、旣に『皇極天皇紀』に「三年正月、中臣ノ鎌子ノ連ヲ以て、神祇伯ニ拝ス」と見え、『天武天皇紀』に「五年十一月」、神祇官長上の名あり。是等官舍なくして官人のみ有とせんや。官人あらば官舍あるべし。官舍あらば奉祀の神も亦有るべし。
然るに『古語拾遺』に「神籬ヲ建樹所謂高皇産靈」云々、とある神名を附會なりとして、『神武天皇紀』に「靈畤ヲ於鳥見ノ山中ニ立テ、用皇祖天神ヲ祭ル」とのみあるを正しと云へど、『古語拾遺』に謂所の八神奉齋の神籬と、鳥見山中の靈畤とは別なり。故に『拾遺』にも「爾乃靈畤ヲ於鳥見山中ニ立テ、天富命弊ヲ陳テ祝詞シ皇天ヲ禋祀<マツ>ル、群ノ望ヲ編秩シ、以神祇之恩ニ答フ焉」と云へるを見るべし。廣成宿禰いかに氏の衰廢を慨むとも、臆度を以て神名を符會し、朝廷の大事を奏上せむや。己が説に反するを以て、彼を非なりと云ふは意得がたし。
旣に建久二年に撰せし『眞俗交談記』にも「神祇官八神鎭坐事、如何、資實云ク、『有國記』ニ云ク、「八神者、神武天皇、人代ノ八神ヲ崇メ奉リ上爲メ給也」云々、といひ、『伯家部類』にも「八神殿ノ事ハ神武天皇卽位元年十一月庚寅始テ祭玉フ處ナリ」とあるをも證とすべし。又八神各本社ありと云ながら、崇神天皇の御代、神靈遷移せる社なることを思はず、却て本社ある神を後に神祇官に祭祀するか如く説たる悉皆信用しがたきことなり。
予は『古事記』、『大倭本紀』、『古語拾遺』の明證に據り、崇神天皇の御世諸神の靈形奉出の例に准し、又神宮の古記に從て答るものなり。敢て憶度に辨するに非ず。
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『御巫淸直全集 神宮神事考証<前篇>』「豐受神靈由來或問」昭和十年(1935):
御巫淸直(1812〜1894)/著 神宮司廳/編輯